「FP弁護士」を目指す無職のブログ

法&ファイナンスで独立のライフサポートを行う「FP(ファイナンシャルプランナー)弁護士」を目指しています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

[REVIEW]『いのちの子ども』



VALUE:★★★☆☆
★★★★★:最高の一作=後世に残すべき
★★★★☆:スゴイ=目からウロコ
★★★☆☆:良い=一見の価値あり
★★☆☆☆:無価値=中身無し
★☆☆☆☆:有害=二度と映画を作らないでほしい



【以前mixi日記に書いたレビューを転載】

ガザ地区に居住するパレスチナ人(アラブ人)の赤ん坊を難病から救おうとする人々を、イスラエル人(ユダヤ人)ジャーナリストが追いかけたドキュメンタリー。


基本的にはヒューマニズムを訴える映画に思える。

しかし、イスラエル人ジャーナリストが、難病を抱える赤ん坊を産んだパレスチナ人の母親にインタビューするシーンにこそ、観るべき価値がある。


パレスチナ人の母親は、対立の回避の為に「エルサレムを分けたらどうか?」とのジャーナリストの問いかけに対し、断固として否定を繰り返した。

エルサレムは、アラブ人のものであって、ユダヤ人のものではない。

そう繰り返し、次のシーンにこう述べた。
私の子どもは、難病から救われた後、エルサレムの為に殉教者になるだろう、と。


子どものいのちを必死に救おうと尽くす母親でさえ、神の為にいのちを捨てさせることはいとわない。

殉教者にする為にいのちを救う」という考えに、宗教も民族も違う子どもを救おうと奔走していたジャーナリストは耐えられなくなり、怒りを覚える。


最終的に民族対立や宗教対立については、曖昧なまま映画は終わる。
映画を作ったジャーナリストは、母親が改心したかのように結論付けているが、母親の内心はほとんど変わっていないのでないか、そう思えてならない。


・ ことば(論理)で超えられないもの

神>いのち” という価値観をもつ者に対して、ことばで覆そうとすることは無意味でないか。

一神教を信じる者が「神のためにいのちを捨てよう」とすることは、どこにも矛盾が無く、論理的に一貫した合理主義的な態度である。
(参考:ふしぎなキリスト教


しかしそう考えると、突き詰めていけばイスラエルとパレスチナのどちらかの民が滅びない限り、エルサレムの帰属問題は解決不可能である、ということになる。

ただ、それがもし現実化しても、もはや「解決」と呼べるような結果ではない。



・ 承認、赦し、アイデンティティのアップデート

パレスチナ問題の何が悪いことなのか。「対立」が悪いことなのか。
悪いことは、「対立」でなく「暴力」だと考える。
目的の問題でなく、手段の問題と考えれば、徹底的に排斥すべきは「暴力」の行使である。

しかし、「対立」しながら(より良くは「対立」の解消に至ることだが)、 「殺さない」「傷つけない」と努めることは可能だろうか。


「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが数年前、取り沙汰されたことがある。

「法律があるから」「社会的に非難されるから」、こういう合理的な理由で人が人を殺さないわけではない。

そうではなく、人が人を殺さないのは「殺せない」から、である。
(参考:『人生の教科書[よのなかのルール]』)

人は、コミュニケーションを通じて他人から肯定されることで、つまり“承認”を通じることで、自分の尊厳を養っていく。
自分を肯定し形作る他人を殺すこと=自分を殺すこと。
だから、もはや自分の中に、他人を「殺せない」自分が埋め込まれてるようなものだ。

「殺さない」「傷つけない」ことを実現させるには、「殺せない」「傷つけられない」ようにするしかない。内発的なメカニズムが必要なはずである。



次に、“赦し”“アイデンティティのアップデート”について。
(参考:『文明の内なる衝突』

9.11に対して、「軍事介入」を以て対抗するのではなく、「徹底した大規模な援助」を行うべきだった、と断ずる論がある。
つまり、「罰する」「償わせる=奪う」のでなく、「赦す」「喜捨=与える」べきだった、という意味である。

こんな援助は、「善」「正義」から結論付けることはできない。
「善」や「正義」からすれば、テロリストは罰して当然だからだ。

それでも「赦す」なら、それまでの「善」「正義」を放棄しなければならない。

つまり、その時点まではとうてい赦すことが不可能なことを赦す、ということを意味する。

「善」や「正義」は、各人のアイデンティティを定義している。

しかし、アイデンティティの中核的な「善」「正義」を放棄し、「赦す」とき、 赦す側と赦される側のアイデンティティは結果的に変容する。

「善」や「正義」が放棄されれば、アイデンティティの定義は書き換えられるからだ。

もし本当にテロリストを含むアフガンに対して「援助」を行っていれば、 「私」はそれまでの「私」でなくなり、テロリストはテロリストでなくなる可能性が開けたかもしれない、ということだ。
テロリストがテロリストでなくなれば、それは最高の「テロ対策」ということになる。



こういう状況が本当に実現するのか。

『いのちの子ども』に戻れば、イスラエル人医師やジャーナリストはパレスチナ人の子どもを救おうと、特に理由もないはずなのに、本気で苦悩し、奔走し、そして喜びや悲しみを分かち合った。

かつて、子どもを殉教者にする、と言ったパレスチナ人の母親は、エルサレムの為なら争うことを辞さないと言った。

しかし、エルサレムの為に、「必死に子を救おうとしてくれた目の前のイスラエル人たちを殺せるか」と問うたらどう反応し、どう答えるだろうか。

示されたのはひとつの希望だったはずだ。

スポンサーサイト
  1. 2012/06/16(土) 07:49:55|
  2. Movie/REVIEW
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント
<<「新政府総理大臣」のライブ。 | ホーム | 「詐欺師」に気をつけろ~証券マンの実態~>>

トラックバック

トラックバック URL
http://landfresearch.blog.fc2.com/tb.php/8-5ca3d5ad
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。