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[REVIEW]『「当事者」の時代』

 
「当事者」の時代 (光文社新書)「当事者」の時代 (光文社新書)
(2012/03/16)
佐々木 俊尚

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VALUE:★★★★☆
★★★★★:最高の一冊=後世に残すべき
★★★★☆:スゴイ=目からウロコ
★★★☆☆:良い=一読の価値あり
★★☆☆☆:無価値=中身無し
★☆☆☆☆:有害=二度と本を書かないでほしい


・「内なる声」から遠ざかる私たち

「内なる声」とは、私が思うに、次のような言葉を指すのではないでしょうか。
例えば、本書に記された、東日本大震災の被災地の河北新報で取材を続ける記者の皆さんの言葉。

・「取材に行く。話を聞く。インタビューして話を聞いていると、そこから何かの物語を考えようとする以前に
 『僕もそうなんですよ』という言葉が先に口を突いて出てしまう」
・「被災者が語る希望を、自分のものにしていきたい。そう記者たちは求めている。
 自分も希望がほしい、だから取材して記事を書くんだってこと」


記者の皆さんの今のお気持ちは、私のような者には推し量るに余りあるものがありますが、
少なくともこれらの言葉が、内から自然と湧き出る、揺るぎない勇気と意志から生まれたものだと感服致します。
このように、誰にも指図されなくとも自ら求め、自然に「心から成し遂げたい」と偽りなく思う感情が「内なる声」の一つと言えるのだと思います。

一方で、本書の第1章で論じられている、「夜回り」と「記者会見」。
まず記者会見は、中身の無い「儀式」にすぎません。
そして、夜回り。こちらの実態を本書で初めて知り、まさに「目からウロコ」でした。

夜回りとは、例えば警察幹部と記者個人との特定の人間関係をつなぐ「情報の流れ」、と説明されています。
実は、記者会見はほんの見せかけに過ぎず、夜回りこそがマスメディアを支える基底となっている、ということです。
この夜回りゆえ、個々の記者がそれぞれ必死に仕事すると、個々人にそのつもりは一切なくとも、
“結果的に”マスコミ全体が権力のインサイダー“に見える”、ということが非常に明確に示されています。

さらに夜回りについて詳しく読み進めると、次のような興味深い事実が記されています。そのまま引用します。

・誰と誰がつながるのかというその個人のキャラクターを超えてしまって、「つながっている」という関係性だけが濃縮され、抽出されている
「関係性」が極度に先鋭化された世界なのである

これはおそらく、こういうことです。

例えば、警察幹部A1と大手マスコミ記者B1がつながっている。
ある日、マスコミ記者の配置替えで、B1がB2に代わる。
その後、何事もなかったかのように、警察幹部A1と記者B2がつながり続ける。
またある日、警察幹部が配置替えで、A1がA2に代わる。
すると、またしても何事もなかったかのように、警察幹部A2と記者B2がつながり続ける。
さらにある日、マスコミ記者のB2がB3に代わる・・・(以下、繰り返し)


これは、もはや普通の人間関係といえないのではないでしょうか。
最初のA1とB1の人間関係が、そっくりそのまま全く別人のA2とB2との間にも成立するなどということは、
我々が日常、仲の良い友人等との間で保つ人間関係の上では考えられないことです。

私は、このような「記者会見」と「夜回り」について、次のように感じました。
「こんな仕事は誰でも出来る (仕事に対する“必死さ”さえあれば) 」
つまり、やるべき手順はあらかじめ決まっているため、その作業は、極端に言えば「ロボット」のように機械的に出来る、
人間の「取り替え可能」なシステムに基づいている、という意味です。

そこに人間としての真のオリジナリティが介する余地はありません。
そしてこれは、「マスコミ社内の激しいポジション争い」や、取材コストを低くしながらの「特ダネ競争」等と非常に整合的なシステムでもあります。
(付け加えるならば、このような「取り替え可能」なシステムは、実は日本の至る所に遍在している気がします。)

このように「誰でも出来る」という意味で、大手マスコミ記者は、「河北新報」の記者の皆さんの姿勢とは全くの正反対であることがわかります。

「当事者としての自分」にしか出来ない仕事をしようとする河北新報の記者の皆さん。
「取り替え可能」なポジションを死守し、何よりも「関係性」を優先させる大手マスコミ記者たち。

明白すぎるこの両者の「当事者性」の差を根拠として、著者は<あらたな格差の世界の幕開け>を見出しています。

そして、この<あらたな格差>は、当然のごとくソーシャルメディアに巻き込まれる我々すべてを対象とし始めているのです。


・“私は「無辜の市民」である!”と絶叫する私たち

もう一つ、本書で重要なのは、言うまでもないですが、<マイノリティ憑依>という概念です。また引用させて頂きます。

・マイノリティ視線は思いも寄らない副作用をもたらした
・ただひたすら、人を<加害者>として断罪しつづけても構わないという無残な論理
・弱者が転じて神のようなものとなる。マイノリティの視点を身につけた者こそが、神の視点を持つ
・このきわめて巧妙な構造によって、苦悩する当事者たる活動家たちは一瞬にして第三者へと変身し、高みへと昇りつめ、日本社会を見下ろすことができるようになる
・被害者ではない人たちを全員、加害者の側に押しやれてしまう


詳細は是非お読み頂きたいのですが、本書では幻想の「市民」はどこからやってきたのかと問題提起をされたのち、
戦後から現在までの「言論史」と呼べるような詳細な分析をされていらっしゃいます。

この「言論史」の出発点は、「自分たちはいったい何者なんだ?」という自己への問いかけです。
そして、「自分たちはいったい何者なんだ?」ということがわからないゆえに、
「自分は社会とどう向き合えばいいのか?」いつまで経ってもわからない。
その苦しみから逃れようとするために、その答えを必死に探そうとする、そういう歴史なのだと思います。

しかし残念ながら、この必死の試みは、その目標を全うすることがありませんでした。
むしろ、1970年から<マイノリティ憑依>という病変が日本社会に蔓延するようになり、本書で述べられているように、
「その後、二十年をかけてマスメディアのみならず日本社会の根底を規定するメディア空間の基調となった」のです。

これは一体なぜなのでしょうか?

本書では、「日本の伝統的な宗教心」が要因の一つとされています。
例として述べられている奈良・檜原神社。ここは、「ご神体も本殿も拝殿も、建物は何もない」場所なのだそうです。
何もない理由は、そこが何かを礼拝するためではなく、その「静謐な空間」そのものを礼拝するための場所だからです。
そして、本書では次のように続けられています。

この何もない空間、空白こそが、「絶対」にほかならない。
この「絶対」は、空白であるがゆえに傷つけられず、汚されることもない。

これを読んで、私は内田樹さんのベストセラー、『日本辺境論』(本書の参考文献の一つとなっています)と似たことかな、と思いました。
例えば、『日本辺境論』の次のような一節。

私たちは国家的危機に際会したときに、「私たちはそもそも何のためにこの国を作ったのか」という問いに立ち帰りません。私たちの国は理念に基づいて作られたものではないからです。私たちには立ち帰るべき初期設定がないのです。


「空白を信仰する古代日本」「理念なき国」・・・このような中身の無さ。
現代、「夜回り」記者の皆さんが「関係性」を最優先する、その取り替え可能な「立ち位置」<マイノリティ憑依>に通じるものがある、と言えば誤読でしょうか?

「我々が到達すべき究極は、空白である」、もしかしたらそのような意識が我々の中に深く根付いているのかもしれません。
しかし、空白などというものが今後、我々を救うことが出来るのか?これは大いに疑問ですね。

・私自身の個人的な話

本書の主題は「当事者」ですので、最後は私自身の個人的な話を少しだけ。

私は、去年の半ば頃まで証券会社でセールスをしておりました。
本書の貴重なお話を、無理やり自分に引き付けて申し上げられることは2つです。

ひとつは、私のやっていた証券セールスという仕事も、「夜回り」記者さんとの共通点が非常に多いということ。
「忙しさ」「熾烈なポジション争い」もそうですし、転勤族なので「関係性」の共同体もまさにドンピシャでした。

もうひとつは、「内なる声」に従って、私は証券会社を自主退職したということ。
その内なる声とは、「今の組織では顧客第一は実現できない。ならば、自分でやってみよう」という気持ち。
もちろんその成否はまったくもって不確定ですが、それでも「内なる声」に従いたくなった、ということです。
(付言すべきことは、「今の組織では顧客第一は実現できない」という私自身の言葉の内には、
組織から外れた「被害者」的なものと、かつて組織の一員だった「加害者」的なものが含まれていそうだ、ということです。)

本書の中で、私が好きな言葉が2つあります。
「そう、あなたはあなたでやるしかないのだ」
「それでも闘いつづけるしかない」


「当事者である」ということは、“私にとっては”こういうことなのかな、とふらふらしながらやっているところです。


・追記
「当事者」とは一体どういうものなのか、まだ私自身よくわかっていないところがありますが、
ずっと考えたり調べたりしていたら、以下のような言論とリンクするような気がしました。

内田樹さんの「機」の思想。(『日本辺境論』)
安冨歩さんの魂の脱植民地化。(『原発危機と「東大話法」』)
大澤真幸さんが著作の中で紹介された、寓話「癒す人」について述べられた言論。(『「正義」を考える』)

誤読・勘違いかもしれません。一度、自分の中でゆっくりその関係を吟味したい宿題です。

しかしまあ、見る人によっては気持ち悪いくらいに、本書にこだわってしまった気が致します(笑)。
おそらく、本書で取り上げられているテーマが、単に今の私自身にとって非常に重要かつ現在的な問題だった
ということに尽きるのだと思います。
ですから、個人的にどうしても整理をしておきたかった、それだけの「独りよがり」のものであることをお許し下さい。

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  1. 2012/03/19(月) 20:42:25|
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