「FP弁護士」を目指す無職のブログ

法&ファイナンスで独立のライフサポートを行う「FP(ファイナンシャルプランナー)弁護士」を目指しています。

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「正解なき時代」の絶望と希望

【オピニオンサイト「アゴラ」さんに当記事のショート・バージョンを載せて頂きました→ショート・バージョンはコチラ。ブログの方は単語など若干違います。】


他人のことは、何一つわからない。
そこからスタートしたい。

他人が何を正しいとし、何を間違いとするか?
他人が何を好み、何を嫌うか?
他人が何を欲し、何を幸せと捉えるか?


どうやらこういう問いについては、確定した“唯一の正解”を出すことなど不可能らしい。逆に、そんな正解を知ってる人がいれば教えてほしいくらいだけど、現在わかる範囲の思想や学識を見渡しても、永遠に不確定のままで終わる可能性が高そうだ。
だから、「各自、勝手にやってくれ」と言うことしか出来ず、原則すべてが自由であるということを(暫定的に)結論付けて構わない、と考える。

ここで“自由”という語を、「何も決まっていない・命令もルールも何もない」という程度の意味で使いたい。つまり、「思い通りにできること」というような意味は含まない。

ところで、各自が自由に生きていると、どうしても他人とぶつかることがある。そこで、その衝突やいざこざを調整・解決するために、一定のルールが必要となる。何らかのルールがどうしても必要だったり、明らかにルールを作った方が合理的だ、というときにはじめてルールをつくって人の行動を限定することができる。
これはすなわち、原則=自由、例外=ルール、と言い表せる。

これを前提とすると、例えば「民主主義」という仕組みも「ルールをつくるルール」と言えるので、結局「民主主義」もルールの一つに過ぎず、単なる例外の一つである。
「政治も投票も面倒でわずらわしい。だけど自分たちにとっては必要だし役にも立つので、やる以外に仕方ないか」と考えるわけだ。

さらに言えば、必要でもないし役にも立たないルールがあれば、やめてしまって構わない、ということになる。なぜなら、もともとが自由なのだから。
だから、さっきの「民主主義」でも、役に立たないと認定されたらおそらく廃止されることになる。(現にこんな本が売れていたり。しかし私見では、民主主義は「セカンド・ベスト」として賛成です。)

こうして、あらゆるルールは当然消したり変えたりできる、すなわち「すべてのルールはいつでも改変可能である」という前提を導くことができる、と私は考える。

繰り返すが、この世界にはあらかじめ決められた「~すべき」という命令やルールはないと考える。例えば人間以外の動物は、当たり前だけど「~すべき」と考えて生きてはいない。もともと自然の中に命令やルールは存在しない。勝手な予測を付け加えれば、生物は、それぞれが生きる環境に「適応」した結果、たまたま各々の生態を持つようになっただけでないか。そして人間のルールや法律もろもろは、おそらく人間の「適応」の結果として生まれたに過ぎないのでないか。その人間の「適応」は、歴史的反省からもたらされた多くの「価値」の尊い集積に他ならない。

誤解してほしくないのだが、私はルールや法律もろもろを軽視したり、無意味だと言っているわけではない。ただ単に、ルールは例外的につくられた一種のツールだということを再確認しておきたいのである。

ルールを守るために人が生きているのではない。人が生きるためにルールを守る。
ルール中心ではない。いつでも人が中心である。


ルールは、人に「こう生きるべきだ」と示すことはない。むしろ示してはいけない。ルールに出来ることは、他人との共生のインフラとなることだけだ。

例えば、自分の持ち家に一人暮らしをしていれば、家の中では何のルールもなく過ごせる。好きなことをし、嫌いなことはせず、ちょっと大げさに言えば自分の幸せだけ考えていれば良い。
しかし、これが誰かとの共同生活になると話が違う。夫婦で一緒に住めば、必ず大なり小なりのルールが必要になる。そしてそれは、会社でも地域でも国家でも国際社会でも同じことだ。

確認しておきたいのは、他人との関係が生まれてはじめてルールが必要になるということだ。要するに、例えば私(あなた)自身の信念・価値観・考え方や生き方といった内面に関わることについては当然、私(あなた)自身の問題だが、対して、私(あなた)と他人との関係はルールによって決められる問題だということを明確にしておきたいのである。これは、各個人の信念・価値観等は各個人の担当であり、一方で各個人と他人との関係はルールの担当である、という役割分担を意味する。

そして、もう一つ言わねばならないのは、私たちは必ず他人に頼って生きていということだ。他人との(濃淡ある)かかわりは不可避であり、よって何らかのルールが絶対に必要になる。

この点について、「私たちは必ず他人に頼って生きている」というところには異論のある方もいるかもしれない。そういう方には、安冨歩さんの『生きる技法』という本をぜひ読んでみて欲しい。詳しくは触れないが、「自立とは依存することだ」という目からウロコの原理が説得力をもって平易に語られている。

さて、ここまでをいったんまとめておくとこうなる。
  • 各個人の信念・価値観等は各個人の問題である。また、自分以外の他人の考えは、究極的にはわからない。
  • 私たちは、必ず他人に頼って生きている。よって、他人との共生についてのルールが絶対に必要となる。

こうしてみると、私たちが生きる上での「ある難題」がどうしても生じてしまう。
すなわち、「私はこう生きたい」等の価値観は往々にして他人と一致しない。さらに、社会のルールや仕組みに対して、「自分の信念に反する!」などと反発を覚える人たちが少なからず現れてしまう。このような場合に、私たちがどう共生するかという難題である。

この難題は、例えば「原発問題」をイメージすれば簡単に理解できると思う。

3.11以降、原発に関して「圧倒的な多数派」なる勢力は存在しなくなった。昨今の原発再稼働問題に関しても、主に政財界を中心とする肯定派に対して「再稼働反対!!」と叫ぶ一連のデモ参加者の姿などをみれば、今後、社会的な混乱はさらに悪化の一途をたどるのではないか。その混乱の原因の一つは、「自分が正しいと思う信念が、他人や社会に受け入れられない!何でわかってくれないんだ!?」という大きな不満にある。

こうみると、各個人と他人(そして社会)との関係がかつてなく悪化していると言える。そしてそれは、他人との関係を調整するルールに不信の目が向けられているからこそだ。

今まさに、他人との共生について定められたルールの正当性そのものが揺らぎつつあるわけだ。これについては、先に申し上げた通り「すべてのルールはいつでも改変可能である」との前提から考えても、「今のルールや仕組みで本当に良いのか!?もっと良い社会の形があるはずだ!」という疑念が拭えなくなるのは当然である。

このように、ルールの正当性そのものが疑われている現状から導けるのは、「もはや誰もが賛同するような真理などあり得ない」と皆が思っているのでないかということである。
例えば、原発についても消費税増税についてもTPPについても、「絶対的な正解などない」という意識が拭えないからこそ、激しい紛糾が避けられないのだろう。

もはや皆が正しいと思う「正解」などない。こう言うと、反対の方もいらっしゃるだろう。私もそんな「正解」があれば知りたいと思う。しかし、そんな「正解」を探す試みは失敗に終わるのではないか。少なくとも、紛糾する諸々の問題について、世間のどんな天才的な人間もわからない絶対的な「正解」が近いうちに見つかる、などという希望的観測はとても持てない。

そこで、次のような提案をしたい。

皆が正しいと思う「正解」など少なくとも直近では見つからない、と考えるならば、私たちは、そんな「正解」に頼らなくとも他人と共生できるような「知恵」を身につけるしかない。これこそ今、最も求められることである。

「出来ないことは(少なくともすぐには)出来ない」という現状認識をもって、私たちが直面する「難題」に対処していく知恵だ。それは、皆が正しいと思う「正解」が不明だとしても、正当なルール(正当だと思えるルール)をつくって上手く他人と共生していく営みである。

繰り返しになるが、今、私たちに必要なのは、誰もが正しいと思う「正解」を探すことではない。

私たちがどのようにして、各個人の信念・価値観を他人や社会に上手く伝え、説得を試みるか。
どのようにして、他人に(心からの)自発的な共感や合意をしてもらうか。
そしてひいては、どのようにして全体の合意へと結び付けていくか。


「個人から社会全体へ」とつなげるために、私たちにとって必要なのは新たな合意プロセスである。そして同じく必要なのは、そんなプロセスを支えるような今までにないルール、もしくは既存のものをさらに強化したルールである。

だから、「正しいのは私の考えだ!」といった叫び合いの中には絶望しかない。

「私の考えはこうですが、あなたはどう思いますか?」
「あなたと私の考えが違うのは仕方ない。では、その良い点・悪い点を比べてみませんか?」
「私とあの人との意見はそれぞれこうですが、皆さんはどう思いますか?」


ほんの一例に過ぎないが、このようにして繰り返される問いかけの先にこそ、希望があるはずである。(了)


・・・と、このような問題意識の上で、今後、最も価値ある知恵となるであろう「交渉」「仲間の見つけ方」「組織化」「同盟」「ネットワーク構築」「動機づけ」「マーケティング」「イノベーション」「アクション」「見える化」「民主主義コストの徹底削減」「参加」「価値」などなど、新しい合意プロセス・新しいルール・新しい仕組みについて、自分なりにここで発見・再発見していきたいなーと思っています。

この続きは、またいずれ。


生きる技法生きる技法
(2011/12/23)
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その他の主な参考文献:『不可能性の時代』(大澤真幸 著)


不可能性の時代 (岩波新書)不可能性の時代 (岩波新書)
(2008/04/22)
大澤 真幸

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  1. 2012/08/26(日) 07:35:01|
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