「FP弁護士」を目指す無職のブログ

法&ファイナンスで独立のライフサポートを行う「FP(ファイナンシャルプランナー)弁護士」を目指しています。

【人生でやりたいこと】(ブログ趣旨)

現時点の、これからやって行きたい仕事・実現したい志です。自己紹介の一環として。(カンタンな経歴は左記プロフご覧下さい。)
主に下記のテーマでブログを書きたいと思ってます。こんなことに興味のある方・何となく気になる方は、ブログ左側のTwitter、メールフォーム等でメッセージお待ちしてま~す。

  1. 1.お客様の現在から老後までの生活を戦略的に考える【ファイナンシャルプランナー業・個人向け】
  2. 2.お客様のあらゆるトラブルを上手に予防・解決する【弁護士業(予定)・個人向け】
  3. 3.民主主義の「アップデート版」をつくる【趣味・社会全体】
[空白スペース]

※ これだけでは意味が分からないので、ちょっとずつ詳しくする予定です…。

[空白スペース]

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

国民審査:最高裁判事全員をリコールせよ

NPO法人フローレンス代表理事・駒崎弘樹さんが、Facebook上で「国民審査」についてコメントされていました。今回は、その投稿&コメントを基にいろいろ書いてみます。先に個人的な意見を述べておくと、私は結論として全員に×をつけます。

以下はこちらのリンクを前提に書いてるので、よろしければご一読を。ただし、コメントも含めると結構長いですが…。(Facebookのアカウントが無くても読めるようです。)
駒崎弘樹さんの投稿&コメント→◎国民審査は全員に×をつけよう!

まず、江川紹子さんの文章(駒崎さんが引用した所)から。
江川さんは、「全ての裁判官に×をつける」と仰っています。理由は、大まかに以下の2点。
理由① 「裁判官をどう評価したらいいか分からない」場合、<説明の足りない裁判官・裁判所>が悪いのか、<無知な国民の私達>が悪いのか?どちらが制度形骸化の責任を取るべきなのか?こう考えたとき、<説明の足りない裁判官・裁判所>の方に責任がある
理由② 冤罪事件はじめ数々の司法の間違いは、最高裁の姿勢に大きな責任がある。よって、そんな最高裁に対する批判として「×10(バッテン)」する。

第一に、この理由①については江川さんの仰るように、「裁判官をどう評価したらいいか分からないのは、有権者である国民の責任ではない。責任はもっぱら、分かるように説明する責任を果たさない裁判官や裁判所にある」と断じるのが正しい、と私は考えます。裁判所の情報をだれよりも握っているのは当然、裁判所自身なのですから、情報発信しやすい裁判所側にその責任を負わせるのが理に適っているからです。そして、その情報発信が足りない場合、「わかってもらえなかった失敗」の責任を取るべきは裁判官です。(この点について、だからといって<無知な国民の私達>に責任は無いと言うつもりはありません。つまりは、どちらにもそれ相応の責任はあるのです。ただ単に、裁判官には裁判官の責任を取らせるべきだ、ということです。

この観点から現状を省みたとき、国民が国民審査について知ることのできる情報は不十分どころか、ほぼゼロに近いと言っても過言ではありません。といいますか、はっきりいってここまでひどい怠慢は中々ないんじゃないでしょうか…。国民審査は憲法で定められた制度なのに、その本来の趣旨を全くと言っていいほど達成しないまま放置する裁判所(そして法律業界一般)とは、一体どういう神経してるんでしょうか。(行政サービスにはありがちなことでもありますが…。)
まさに「仏作って魂入れず」の状態で、「憲法で決まってるから仕方ねえ、一応やらないといけないから憲法違反と言われない程度に適当にやっとけ」くらいのやっつけ的姿勢で取り組んできたんじゃないか、と思えてなりません。

しかし、一方の理由②について。
これについては、国民審査が「あくまで裁判官個人としての審査であって欲しい」とのFacebook上のコメント(裁判所書記官・渡辺徹さんのコメント)も、「裁判官の職権の独立」(憲法76条3項)からして説得力のあるものです。
この書記官の方のコメントを考慮に入れると、我々は次のように考えるべきでないでしょうか。冤罪事件に代表される裁判官の数々の間違いを正すことや、間違った裁判官にペナルティを与えることは不可欠である。よって、間違いを正す・ペナルティを与える、といった目的は正しい。
ただし、その目的は正しいとしても、その目的達成のための手段として国民審査で「バッテンする」ことが本当に問題解決につながるのか、疑わしいと言えます。きっと国民審査で全員にバツを付けても、酷いミスで冤罪を生み出すバカな裁判官を断罪することには必ずしもつながりません。よって、理由②から「バッテン」することは、全く無意味ではないかもしれませんが、かといって問題解決に有効な方策とも言えないということになります。

よって結論としては、2つの理由のうち1つは落ちたが、理由①より我々は裁判官に×をつけるべきである。しかし、それだけでは裁判官のバカな「暴走」を止めることができないので、冤罪その他の重大かつ恐ろしい司法問題の解決のためには、別個の対策が必要である。こう結論付けるべきだと考えます。

・国民審査は、何を審査するために行われるのか?

ここで、上記理由②および裁判所書記官の方のコメントからさらに掘り下げてみると、結局、国民審査とは何を審査する制度なのかが問われます。要するに、肝心の問題は最高裁判事とはどのような仕事をしていて、司法のどの範囲まで責任を負っているのか?ということになります。リコールするか否かは、各判事の責任ある仕事の実績だけで判断すればこそ正当な評価と言えるからです。ゆえに、最高裁判事は判決を出す仕事だけやってるのか裁判所の人事に何らかの影響力を持っているのかそもそも最高裁の個々の判決の正当性はどのように認められるのか・仮に判決が明らかに間違っている場合はどのように是正(フィードバック)されるべきなのか・・・このような疑問に対する見解が問われることになります。こうして、「裁判官個人としての審査」と言っても、何を材料にして審査すべきかが問われることになります。

しかし、です。最高裁判事が一体どんな仕事をしているのか、裁判所の仕事のうちどの範囲まで責任を負っているのか、国民のうちどれだけが知っているというのでしょうか?申し上げた通り、「司法のことを我々が知らない」もしくは「無知からくる司法への不信感」の責任は、<説明の足りない裁判官・裁判所>にあります。(同じく先ほどの通り、<無知な国民の私達>にも責任はあります。しかし、裁判所側にも責任を問うべきなのは明白です。)国民審査に必要なその判断材料すら十分に提供しないのは、国民審査に不可欠な前提条件すら整備していないということを意味し、「公務員」として明らかな職務怠慢です。もっと言えば、国民審査を規定している憲法の精神を蔑ろにしている、とすら言われかねないでしょう。(こういった点でも、我々は理由①より裁判官に×をつけるべきだと思います。)

このような意味で、裁判官は「公務員」としての重要な職責の一つが全うできていません。その職責とは、憲法や法律の正しい適用を保障することですが、私は、その適用の「質」にこそ裁判官が責任を負うべきだと考えます。すなわち、「国民審査?違反にならない程度にやっつけで片付けとけ!」といった姿勢をもつのでなく、「裁判官の考え方・意識と民意のズレを是正するために、実効的な国民審査にしなければならない。そのために司法が最大限できることは何か」と考え、実行すべき組織が裁判所です。そのような姿勢をもち、裁判所が「国民にわかりやすい司法」を担うことによってはじめて、裁判所は本来の職責を全うしたことになると私は考えます。一言で言えば、「司法サービス業」であれ!ということです。

その裁判所の職責は、究極的には国民主権、すなわち国家の統治権は国民が担うという原理に由来します。当然ながら司法も国民が担うものであって、裁判官はその国民に奉仕する「公務員」すなわちサーバントです。言ってみれば、国民が「上司」で裁判官は「部下」という関係です。(この意味で、政治家も官僚も同じく「部下」です。)そして、国民が任せてもよいと思える「公務員」、この人ならばと我々が思えるような「良心」を持つ優秀な「公務員」たる裁判官に信託する方法によってはじめて、司法が機能するわけです。

・補足
ちょっと国民審査からは離れますが、「国民主権」「裁判官の職権の独立」との関係について(自由すぎる?)私見を述べたいと思います。
申し上げた通り、国民主権であるがゆえに、司法は国民が担います。その司法権の行使方法として、まさしく上司が部下に仕事を頼むように、国民が裁判官に信託する手段を採っているわけです。
このような話をすると、「一般国民やマス・メディアによる裁判所批判が司法権の独立を害するのではないか」との批判が聞こえてくる場合があります。確かに、大衆扇動など何らかの事情によって国民の多数が間違った方向に流れた場合、司法権の独立を侵害するおそれが高いです。我々は、世論の恐ろしい「暴走」を避けねばなりません。しかし、我々が避けるべきはあらゆる「暴走」なのであって、世論であれ裁判所であれ、だれが引き起こすかは重要なポイントではありませんただ「暴走」を止めることにすべての関心を向けるべきなのです。そう考えると、現状では裁判所の「暴走」をくい止めることができないままですから、これこそが問題です。(現に、「暴走」と言わざるを得ない司法判断がいくつも明るみになっているのですから。)
もちろん、「裁判官の職権の独立」を侵すわけにはいきません。これについて、まず我々がやるべきことは裁判官が憲法・法律に反していないか裁判官が従っているのは良心かそれとも独善か、という点に絞って助言的な意味で議論し、一定の結論を出すことです。つまり、国民感情とか社会通念とか呼ばれるものを見える化するのです。ポイントは、裁判官の判断を一切拘束しない制度としてそのような国民的議論を行うこと。それによって可視化された「社会通念」の国民判断と、裁判官の司法判断を比べて示すだけでも、今の惨状からだいぶ前進することができるのではないでしょうか。


それにも関わらず現状では、上記の判事の職責はじめ「裁判所がどう考えているのか」「裁判官が本当に裁判官としての良心をもっているのか」といった情報について、受け手の国民に伝わるようなメッセージが何ら発信されないことに、あらゆる問題の根本的な原因があります。(これに関連して、「国民のために仕事をする」という意識がないために、判例一つとっても国民が理解しやすくなるような工夫が一切生まれませんし、かねてからずっと指摘されてきた深刻な「司法による人権侵害」がいつまで経っても繰り返されています。)

このような現状は、「裁判官の判決がダメだ」などと判決内容を議論する段階でなく、「そもそも裁判官が何やってるかわからない。判決内容の是非を議論しようにも国民的な評価すらできない」という手続上の前提が崩れている状態です。

以上のような考えから、「それぞれの裁判官がきちんと分かりやすく説明をしないために、『よく分からない』状態で審査に臨まされていることについての異議申し立て」(江川さん)として、全員不信任にするのは有意義だと思います。

もちろん、最高裁判事の方々のなかには「正しい判断」をしている人もいることでしょう。しかし、「正しい判断をした」と自分が思っていても、それが人に伝えられなければ無意味です。たとえ皆に同意されるのは困難だとしても、少なくとも断言できることは、「正しい判断とその理由」はうまく表現されなければ、その意味が伝達されなければ、良質のアウトプットを以て材料が与えられなければ、信頼するか否かの前提条件すら満たしません。裁判官の判断も、これと同じ。現段階は、最高裁の判断内容うんぬんの問題というより、その前提となる情報公開や手続の面で形骸化している、という未成熟な段階です。我々はそのことを認識し、また裁判所にも認識させねばなりません。

「国民としてわからない」ということの責任を国民として自己に引き受けつつ、その「わからない」状態について裁判官にも責任を取らせる。より正確に言えば、このような結論になると思います。我々は明確な姿勢を示すべき時であり、私はその一つの表明として×をつけようと思います。

関連リンク
国民審査公報(京都府)
一人一票実現国民会議
国民審査は全員に×をつけよう!(病児保育のNPO法人フローレンス代表 駒崎弘樹のblog)

スポンサーサイト
  1. 2012/12/12(水) 20:20:26|
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。