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半沢直樹と「凡庸な善」~日本に必要なのは半沢でも花咲舞でもない~

【本記事はアゴラさんに掲載頂きました(2回目)。タイトルを修正してます→こちら


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(2011/11/15)
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今月、『花咲舞が黙ってない』というドラマが始まります。このドラマは、あの大人気ドラマ『半沢直樹』の原作者・池井戸潤さんの小説『不祥事』『銀行総務特命』をドラマ化した作品とのこと。その主人公・花咲舞は「女半沢」と称されてまして、半沢ファンには期待大のドラマです。『半沢直樹』自体の続編のうわさも聞こえてきますし、今後もますます半沢ブームが盛り上がりそうですね!

しかし個人的には、『花咲舞』の話題や『半沢』続編のうわさを聞くたびに、去年のブームで残念だったことを思い出します。例えば、去年の『半沢』放映時には、
「日本には半沢のような人が全然いない!」
「みんなキリッとしろ! 半沢みたいに組織に立ち向かえ!!」
といった不満や嘆きの声を、ネット上でなんども目にしました。今後もこんな声が続出するのでは・・・。

また、その他の一部には、
「半沢はさっさと銀行を辞めたらいいのに」
「組織にこだわる意味がわからん。起業でもしろよ」
みたいな、半沢の素晴らしい存在意義を全然わかってない意見もチラホラありました。これも非常に残念です。

なぜ素晴らしいか? 半沢は「組織を変えたい!」と強く願っているからです。

なぜ「組織」にこだわるのが大事なのか?

われわれの組織には2つあります。「善き組織」と「悪しき組織」です。かの有名な『マネジメント』の著者、ピーター・ドラッカーは、組織をいかにして「悪しき組織」ではなく「善き組織」にするか、ということを生涯考え続けた思想家といっても過言ではありません。なぜそこまでこだわったか。「善き組織」は人を活かす反面、「悪しき組織」は人を殺すからです。(しかも比喩でなく、ときには本当に「殺し」ます・・・。)


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だからこそ、私たちにとって「組織」は生死を分けるほど重要なのです。確かに「個人の時代」だ何だとやかましい昨今ですが、やはり大多数の人は今後も変わらずなんらかの組織に属します。人と組織は切っても切れない関係のまま。

さらには、もしカネもモノも人材も集中する大企業のうち一つでも本当に「善き組織」に変わったら、これほど社会にとって有益なことはないでしょう。その恩恵のインパクトは、ノマドな個人がどんな偉業を達成したって比べものにもならない。

半沢は「大銀行を善き組織にしたい!」と願うからこそ人の心をつかむのです。その願いが実現すれば、組織で働く内部の人も、顧客となる外部の人も、大組織にかかわる大勢の人たちがみんな苦しまずに済むのですから。


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しかし、ここで最初の不満や嘆きに戻ってきてしまいます。

まず、一部の意識高い系が叫ぶような、
「今日からオレらも半沢になろうぜ!」
なんてのは、残念ですがムリな相談です。そんなお題目だけで世の中が変わるなら、もうとっくにみんな幸せ。

それに半沢になれるのは、はっきり言って「変人」だけです。特殊な才能や人間性、あるいはこだわり(ドラマでは「父の自殺」の過去)が絶対条件。平凡なあなたも私も、大多数が半沢にはなれません。(もちろん自信のある方のみどんどん半沢を目指すべき。これは前提です。) 

でも、私たち全員が半沢になれないからといって悲観することはありません。そんなに必要としなくても、半沢のような「変人」は探せば必ずどこかにいます。ただ、今の日本社会では、どこにいても「変わり者」とか「一匹狼」とか呼ばれて疎まれてるだけ。そして、不遇の身で目立たないのです。(半沢が実在しても、即「出向」が現実です・・・。)

組織を変えられる「半沢」はどこかにいる。今、日本に必要なのは、それ以外の何かです。

そこで、閉塞感いっぱいの組織を変えるために私たち「凡人」に出来ることは何か。それは、私たちでも出来る範囲の「正しいこと」をするしかありません。この正しいことをひとまず「凡庸な善」と呼びましょう。けれども、あまりにつまらない善を行っても、組織は決して変わりません。ならば、組織をガラリと変えるような、でも誰でも出来そうな、そんな凡庸な善があるのか。そんな凡庸な善を実践するお手本やモデルが、どこかに見つかるでしょうか?

実は、そのモデルはすぐに見つかります。本当にそこら中に見つかるのです。

今回はドラマの話題から始めましたので、ここでは『半沢直樹』のドラマからそのモデルを申しましょう。

すなわち、平凡な私たちは、
ときに大阪の中小企業の社長(赤井英和さん)や未樹(壇蜜さん)になり、
ときに近藤や渡真利(及川光博さん)になり、
ときに半沢の信頼すべき部下や上司になり、
あるいは半沢花(上戸彩さん)のような妻や夫になればいいのです。モデルにすればいいのです。そして、半沢直樹のような「リーダー」に手を差し伸べ、応援し、たまにダメ出しすらして、協力していけばいいのです。

もちろん中には、力や権威ある者の手前、表立って半沢のような人に協力するのがしんどい方々も多いでしょう。そのときは、隠れてコッソリやればいいのです。「凡庸」な善なのですから、助け方は各自出来る範囲で十分

これこそ、私たちでも出来る「凡庸な善」です。平凡で現実的で、でもチリも積もればゲリラのごとく超強力なパワーとなります。そしてこの実践によって、私たちは「善き組織」を手に入れ、「理不尽に苦しまない自分の幸せ」を手に入れ、さらに家族・同僚やお客さまの「笑顔」も増えていく。

必要なのは、半沢でも花咲舞でもありません。(もうどこかにいますから)
必要なのは、半沢や花咲舞のような人を見出し、そして明示に黙示に力を貸す「パートナー」。そんな「凡庸な善」の実践者たちなのです。そんな実践者たちがそろってはじめて、世の「半沢たち」が真価を発揮するのです。

『半沢』や『花咲舞』に喝采を送る人は、今後もますます増えるはず。その気持ちを、これからは「凡庸な善」として表現してはいかがでしょう。

参考動画


(日本語字幕つき動画はコチラ


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  1. 2014/04/08(火) 11:11:45|
  2. シチズンシップ
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自成・共成・公成

防災・災害対応の話のなかで、「自助・共助・公助」ということばが出てくることがあります。

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(内閣府・防災情報の「みんなで減災」ページより)


「自助」は、一人ひとりが自ら取り組むこと。
「共助」は、地域や身近にいる人どうしが一緒に取り組むこと。
「公助」は、国や地方公共団体などが取り組むこと。


と、上の防災パンフレットには書いてあります。このことば、ちょっと面白いな、と。

このことばを少し修正して、「自成・共成・公成」と言うのはどうか。

自ら成す・共に成す・公で成す。

「自成」は、自分ひとりで出来るなにかを実行すること。
「共成」は、だれか他人と協力してなにかを実行すること。(自分+他人・企業・民間団体など)
「公成」は、公権力を使ってなにかを実行すること。(自分+国・地方公共団体など)


例えば、上司の「パワハラ」に悩まされているとき。

会社を辞める=「自成」のひとつ。
同僚と団結して抗議する=「共成」のひとつ。
労基署に相談してパワハラ上司をヘコませる=「公成」のひとつ。

これは、マイナスを除去する例。

もっと積極的に、プラスを生み出す例をあげると、例えば学校教育を「アップデート」させたいと考えた場合。

学校にお金を寄付する=「自成」。
同じ志を持つ「仲間」を見つけて、議論したり、教育活動を行う団体を立ち上げたりする=「共成」。
学校教育法や指導要領を書き換える=「公成」。

おおよそ難しい順で、公成>共成>自成。

もしなにがしかの思いで「社会を変えたい」と考えたなら(大きな話ではありますが)、この3つの中で自分のできる範囲を見定め、動いて行けばいいワケです。

大切なのは、「〇〇はこうあるべき」からスタートするのではなく、そこを目標として「自分に可能な範囲の方法を考える」ことからスタートする思考法。

「低コストな革命論」。そんなぼんやりとした思いつきです。

  1. 2013/08/08(木) 17:23:44|
  2. シチズンシップ
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〝Annie, are you OK?〟


無料の電子版音楽雑誌『ERIS』に掲載されている、「マイケル・ジャクソンの思想」という記事を読んだ。とても大切な「思想」が書いてあったので、ここにも刻んでおきたい。
(以下はその記事を前提に書いたので、ぜひ先に『ERIS』を読んでみて下さい。)


・〝スムーズ・クリミナル〟

今、会社に勤めていたり、学校に通っていたり、どこかの組織に属して仕事やら何やらをされている方々の中には、時々どうにもし難い「やり切れなさ」や強い「違和感」、果ては何とも言えない「絶望感」に襲われる人が、少しは居るんじゃないだろうか。

というのは、私は会社勤めをしていた時、そのどれもを常に感じていた。

私は新卒で証券会社の営業として働き始めた。当時はずっと急き立てられるような感覚のまま、職場での自分の立場を失うことに強烈な恐怖を抱きながら、周りに置いて行かれないように必死に仕事している状態だった。とにかく何をやっても罵られたりバカにされたりする上下関係の中で、同期との激しい社内競争に追い立てられ、目の前の営業目標をただひたすら死ぬ気で追い駆け続ける日々だった。今でこそかつての労働環境の全てに強い嫌悪感を抱くが、当時は「全て自分が悪い。自分が無能なゆえに周りに迷惑をかけてしまうのだ」と自責の念にかられており、周囲に対する劣等感と罪悪感にいつもさいなまれていた。

そして、とにかく仕事に追いまくられて、自分の営業成績や職場での立場などという、反吐の出るような下らないことばかりに心を囚われてしまった結果、あるとき私は、仲良くしてもらっていた大切なお客さんを裏切るようなことをした。あまりにリスクの高い商品を勧誘し、その購入の予約をして頂いたお客さんに対する説明が不十分だった疑いがある、と社内のコンプラ担当に指摘されてしまったのだ。

その販売先のお客さんには、その後、当時の上司とともに十分な説明と意思確認を行い、その商品についてちゃんと了承を頂いたのだが、もしそのまま何の確認もしなければ、れっきとした「説明義務違反」となるところであった。まさに違法行為スレスレの所まで行ってしまったのである。しかも私は、指摘されるまでそれが重大なことだと気付きもしなかった。非常に危ない意識で営業していたと言える。

このことが私自身には非常にショックで、これが大きなきっかけとなって証券マンを自ら辞めた。いつの間にか、自分が一歩間違えたらそんな違法行為をしてしまうような人間になっていたことに、おぞましい思いをしたからだ。(ちなみに辞職後、証券マン時代を省みて書いた記事がコチラ証券マンの詐欺行為について書いているので、関心があればご一読頂きたい。)

あたかも「歯車」のように思考停止で動き、自分の仕事と職場のみを優先させた結果、人としてのモラルを失い、善悪の判断が怪しくなって、顧客をないがしろにするビジネスに手をつけようとした。当時の自分を、自省の意味を込めて、そんな風に言うことができると思う。

それで要するに、このような私の間違いも、明らかに「スムーズ・クリミナル」の一つになると思う。

「スムーズ・クリミナル」とは何か。勝手な解釈だが、私は次のように理解している。
①まず、自分のもともとの感情や意思、良心、善悪の価値観などといったものを捨て去る・二の次にする
②自分の属する会社や人間関係におけるルール又は価値基準に、無批判・無自覚に従う
③このようにして、まるで「ロボット」のようにプログラム通りにしか動かない、思考停止に陥った人間になる


このような状態になると、悪質なケースでは、法律に触れかねないことまで平気でやるようになってしまう。大半はその段階まで行かないだろうが、しかしそれでもほとんどの人間は、組織や仕事上の習慣・システムを無批判に受け入れがちだと思う。

例えばどこの会社でも、従業員が「マニュアル人間」になっていることがよくある。目の前のお客さんのことばに柔軟に対応できず、接客の際もまるでカタコトの台詞をしゃべるように、忠実にマニュアルを守ろうとする残念な従業員がいたりする。こういう「マニュアル人間」は、大手チェーンの飲食店から銀行や役所まで、至る所に存在する。

またそれ以上に、「自分は組織のやり方や習慣にあまり賛成しないが、周りがやってるから仕方ない」と思って受け入れている人たちが異常に多い。私の経験では、例えば「この商品は正直言ってお客さんの役には立ちそうにないが、会社がプッシュしてるから仕方なく販売しよう」と思うことに何のためらいも無い営業員は、明らかに間違っているはずなのに、正しいサラリーマンのあり方だとされている。もちろんそういった営業員だけでなく、その営業員と同じ会社に勤める事務系の社員なども、程度の差はあれ似たようなことを思っているだろう。

顧客を優先するのでなく、会社や組織を優先する。目の前で現実に困ってる人、サービスを求めている人をないがしろにし、ただひたすら「システム」が円滑に動くことだけを考える。これこそ「スムーズ・クリミナル」だろう。

考えてみると、ほとんどの人間が自覚の有無にかかわらず「スムーズ・クリミナル」に陥っている、と言えるのでないか。自分自身の正常な感覚からすると到底おかしいと思えること、理不尽と思えること、別のやり方をした方が絶対に理に適っているし人の為にもなるのに、従来のやり方を続けること。こういったことを変えないままでいるのが、普通になってしまっているからだ。
別の言い方をすれば、「空気を読む」ことをどんなときでも第一に考える者が多い、ということだろう。

さて、冒頭で言ったように、もしどうにもし難い「やり切れなさ」や「違和感」、「絶望感」に襲われる人が居るとすれば、自分が知らず知らずのうちに「スムーズ・クリミナル」に陥っているかもしれない、と一度疑ってみた方がいい。

私自身はかつて、「会社の要求通りに生きることが〝社会人〟になることなのだ」と無理やり信じ込むようにして、日頃感じる理不尽さや納得の行かない気持ちをどうにか乗り越えようとしていたのだが、しかしその努力は絶対に上手く行かなかった。むしろそうやって自分の自然な気持ちを否定しようとすればするほど、さらに一層苦しみが増すようになっていったのを覚えている。

自分自身がわけの分からない「負の感情」に囚われることがあるならば、自分が「スムーズ・クリミナル」に陥っていないか、よく自問自答してみるべきだ。とりあえず「疑ってみる」ことが、どうにもし難い「負の感情」から脱却する第一歩になるかもしれない。


・他人を〝変える〟にはどうしたらいいか?

もう一つ、「マイケル・ジャクソンの思想」から学ばなければならないことは、「他人を変えることは、不可能なほどに難しい」ということだと思う。

例えば、『ERIS』の記事にはこうある。

ジャムなどしたくない、スムーズに生きたい、と願って日々不安に怯えながら、それに耐えて暮らしている人に、自分の内面に平安を見いだそう、などと呼びかけても、全面拒否される。逆に「何をのんきなことを。もっと大人になれよ」と説教されるのがオチである。無理にジャムしようと強要しようものなら、猛然と怒り出すであろう。


自分の非を認めることは、だれでも非常に辛い。今まで信じていたものを間違いだと改めるのは、人として非常に困難が伴う。また、たとえ他人の間違いを正しく指摘できたとしても、大抵、無視されるか怒り出すかのどちらかに終わってしまう。

つまり、自分以外のだれかが「スムーズ・クリミナル」に陥っていたとしても、それを当の本人に指摘してみたところで、結果としては改善するどころか、絶交されて終わりとなる可能性が高い、ということだ。

では、「スムーズ・クリミナル」に陥っている他人に対して、我々は何もできないか?これは、「自分のことをまっとうだと信じ、何の問題もないと思って生きている他人に対して、その生き方を根本的に変えさせることは可能なのか?そもそも、それは正しいことなのか?」という問いにも言い換えられる。

この問いに対しては、非常に絶望的な答えしか出てこないように思える。自分が「幸せ」だ、「何の問題もない」と思っている他人に、「もっと正しく生きるためにこうすべきだ!」などと上から目線で言ったとしても、不愉快にしか思われないだろう。そんなことは「余計なお世話」であり、はっきり言って「うざったい」存在でしかないのは当然だと思う。

だから、「もっと正しく生きるためにこうすべきだ!」などという大それたことをもしも他人に伝えたいのであれば、それを説教のように直接伝えるのではなく、創意工夫して全く別のアプローチを取らなければならない。

記事では、マイケル・ジャクソンはそういった意味で最高の「エンターテイナー」であった、というように論じられている。それはつまり、最高の「プレゼンター」であり「メッセンジャー」だった、という意味でもあるだろう。だとしたら、もし我々が何らかの意味で「他人を変えたい」と願うのであれば、そのような最高の「エンターテイナー」から学ばなければならない。

もちろん学ぶと言っても「真似する」のはとても無理なので、その「創意工夫に徹底的にこだわる姿勢」を学ぶしかない。他人を説教しようとすると、大失敗しか生まない。(そういう意味では、このブログ記事も正直上手いプレゼンになってない・・・)他人に働きかけることで何らかの「変化」を起こそうとするなら、それぞれがオリジナリティのある「エンターテイナー」=「プレゼンター」=「メッセンジャー」を目指さなければ、だれにも聞いてもらえない。

このような意味で、「マイケル・ジャクソンの思想」と聞いてもどうもよく分からない、不可解に思った方にとっても、非常に重要で刺激的な論考になっていると思う。


  1. 2012/10/13(土) 23:39:17|
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